女性のための医師に

荻野吟子は、日本で初の女医である。医師は男性と決まっていた、明治時代、医師になるまでは苦難の道のりがあった。荻野吟子は1851年(嘉永4年) - 武蔵国幡羅郡俵瀬村(現在の埼玉県熊谷市に生まれる。家は庄屋(村長)で、かなり裕福な吉良氏をしていた。当時、学問は男子のみが許されていたが、親の特別の計らいで、寺子屋での勉学を許され、その才能を開花さえていった。17歳の時に武蔵国北埼玉郡上川上村(現在の熊谷市)の名主の長男稲村貫一郎と結婚するが、その後体調を崩し、実家に戻ることにはる。原因は夫からうつされた淋病がもとで、本人は、子ども生めず、大好きな学問もできないことから離婚を決意する。 治療のため上京し東京医学校(現在の東京大学医学部の前身)に入院しすることになる。一時は生死の境を彷徨い、2年間もの入院を余儀なくされた。婦人科治療をうけるが、そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、男性医師に下半身を見せて、診察される、なおかつ、多くの医学生がその治療を見学するという屈辱的な体験を受ける。また、このような女性が多く、これが嫌で受診を拒み、命を落とす女性さえいたことを嘆いた。これがきっかけとなって女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという決意により、女医を志す。故郷に戻った吟子は、幕末の著名な儒学者寺門静軒が開いた、両宜塾に入り、そこで本格的に学問の始める。そして、医師としての道を志すため24歳で東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学、同校を首席で卒業する。さらに女医を目指すべく、現在の秋葉原の私立医学校・好寿院に特別に入学を許される。

 

女子高等師範学校第2回卒業生(上段際左が吟子)と卒業生名簿

しかし、ここでも、男尊女卑のひどい差別を受け、様々ないじめや苦労の艱難辛苦を舐めることになる。しかしその苦難を乗り越え3年間で優秀な成績で修了する。しかし、卒業後に大きな問題があった。当時の医師制度の下では、医術開業試験に合格しなければ医師とにはなれなかったのである。しかし、この試験に合格した女性は、ひとりとしていなかったのである。その後、東京府に医術開業試験願を提出するがかつての日本に女医は一人もおらず前例がないことにより、東京府に医術開業試験願を提出したが却下された、翌年も同様であった。つづいて埼玉県にも提出したが同じ結果だった。

 この時、医師になる道は2つあった。1つは海外に留学して医術を学ぶこと、もう1つは前例を探すことであった。荻野吟子は留学を決意するが、その後、恩師の調査で、古代の日本に女性の医者が存在したことが明らかになり、これが前例となり、33歳で医術開業試験前期試験を受験する。この時の受験者は3名いたが、吟子1人のみが合格した。翌年の後期試験も合格した吟子は34歳にして近代日本初の公許女医となる。この後期試験は132名が受験して合格者はわずか24名という非常に厳しいものであった。

 女医を志して 15年が経過していた。そのときすでに父はもとより、母も前月に他界していた。吟子のことは新聞や雑誌で「女医第一号」として大きく扱われる。母親を亡くした翌年には本郷(現在の文京区)に「産婦人科荻野医院」を開業し診療所は、繁盛した。最もよく使われている、荻野吟子の写真は、当時流行っていた鹿鳴館のスタイルの写真に着色したものである。医師になった吟子の間もない頃の姿である。

 この頃、荻野吟子は洗礼を受け、キリスト教徒となる。その後は、医師の仕事の他に、女性社会運動に力を注いだ。そして、39歳の時、13歳年下の同志社の学生で、敬虔なキリスト教徒だった志方之善と周囲の反対を押し切り再婚する。その後、夫の布教活動に同行し、46歳の時に北海道の瀬棚町(現在のせたな町)で、婦人科・小児科の医院を開業する。夫の之善は、1905年吟子が54歳の時に逝去する。しかし、その後も瀬棚に止まり、3年感開業医を続けた。その後は57歳で帰京本所区小梅町(現在の墨田区)に医院を開業し晩年を送る。

 1913年肋膜炎にかかり、ついで脳溢血により逝去した。享年62歳。墓所は東京都の雑司ヶ谷霊園にある。

 荻野吟子の生誕の地、埼玉県熊谷市には「熊谷市立荻野吟子資料館」がある。しかし、荻野吟子の遺品の多くは、北海道せたな町の「生涯学習センター・荻野吟子資料展示室」にあるらしく、ここでは、その資料を見ることができなかった。さすがに、せたな町まで行く余裕がなかったので、雑司ヶ谷の彼女のお墓を訪ねてみた。墓石の脇には、凜とした彼女の石像が建っていた。

 世の女性のため、自らが女医になろうと決意してから、それを実現させるまでの15年は、苦難の連続だったに違いないし、何度も絶望を味わったことと思う。しかし、誰にもできない偉業を成し遂げたとき、人は今まで見たことのない景色を見ることができるのだと思うし、また、自分が正しいと思った時に、正しいと声に出し、行動することができなかったら、人間には何も残らない。彼女の像を見て、そんな想いがした。