幻のノーベル賞

北里柴三郎は1853年、現在の熊本県阿蘇郡小国町に生まれ、1871年に18歳で熊本医学校に入学した。当初は政治家か軍人を志していたが、当時同校で教鞭を取っていたオランダ人医師コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトの指導を受け、医学の道を志し、1874年に上京。東京医学校(現在の東京大学医学部)で学識を深めた。当時日本では、コレラが流行し、北里柴三郎の2人の弟もコレラで亡くなっている。このことが、彼に医者になることを決意させたのかもしれない。東京大学卒業後、内務省衛生局(厚生労働省の前身)に就職し、1886年からドイツに留学。炭疽菌の純粋培養や結核菌の発見などの業績で知られる、ローベルト・コッホに師事して研究に励んだ。コッホのもとでの北里柴三郎の最大の功績は、破傷風菌の純粋培養の成功である。破傷風菌は、土中に存在し傷口から体内に侵入すると、高熱を出しひどいときは数時間で命を落とす病気である。この破傷風の治療方法を確立するためには、破傷風菌を純粋培養する必要があったが、破傷風菌は、常に別の菌と一緒にしか培養できず、共生菌とも呼ばれていた。北里柴三郎はあるとき、針の先を使って、シャーレのゼラチンの中に破傷風菌を植え付けたとき、おかしなことに気がついた。多くの菌はゼラチンの表面に生育するが、破傷風菌だけは、ゼラチンの中だけで育ったのである。破傷風菌は空気(酸素)を嫌う嫌気性細菌だったのである。これに気がついた北里柴三郎は、1889年、空気を水素と置き換えた環境で、破傷風菌を純粋培養することに世界で初めて成功した。この発見は前人未踏のもので、世界の医学界を驚嘆させた。

しかし、これだけでは、破傷風の治療を確立できたとは言えない。次に北里柴三郎は、破傷風菌の培養液をろ過して、破傷風菌を取り出す装置を開発した。そして得られたろ液を動物に注射してみると破傷風を発症することを確かめた。破傷風は、菌が作り出す毒素が原因だったのである。そこで、毒素を無毒、弱毒化して少量ずつ注射すると致死量の濃度を超えてもウサギが生きていることを確かめた。なぜ、ウサギが、毒素に慣れたかが分かれば、これが治療法になるはずである。すでに免疫という現象はフランスの細菌学者パスツールによって発見されていた。北里柴三郎は、この免疫の現象と関連付け、ウサギの血清の中に、抗体が産生されるのではないかと考えた。そこで破傷風の免疫ができているウサギの血清を別のウサギに注射し、致死量の破傷風の毒素を注射したところ、破傷風は発症しなかった。これが「血清療法」である(1890年)。まだ、伝染病に対する有効な原因療法が存在しなかった当時、血清療法は画期的な手法であった。

 

嫌気性菌培養装置を使って実験している北里柴三郎

 血清療法は破傷風菌にとどまらず、ジフテリアにも応用でき、ジフテリアの純粋培養に成功したエミール・フォン・ベーリングと連名の論文『動物におけるジフテリアと破傷風の血清療法について』を1891年に発表した。その10年後、ベーリングは第1回ノーベル生理医学賞を受賞している。最初に破傷風で血清療法を確立したのは北里柴三郎であり、ベーリングはいわば二番煎じであったが、彼にはノーベル賞は与えられなかった。その理由はいろいろあるが、当初のノーベル賞の受賞者は欧米人中心であったこと、今と違って1つのテーマで複数人が受賞することはなかった点、ドイツでは国を挙げてベーリングがノーベル生理学医学賞を受賞するように応援したが、日本はそうしなかったことが挙げられる。その理由は当時流行っていた、脚気の原因にあった。北里柴三郎はドイツ留学を勧めてくれた、緒方正規東大教授は、脚気は細菌によって起こるという説を発表したが、北里柴三郎はこれを痛烈に批判したのである。「北里は恩人の悪口をいうけしからん輩だ」と東大閥(陸軍軍医総監の森鴎外が先方)から非難され、裏切り者みなされからである。なお、脚気の原因が後に鈴木梅太郎によってビタミンB1の不足が原因とわかるのは1912年のことである。

 1892年に帰国すると、このような確執により、北里柴三郎は、東大の医学部と対立しつづけることになる。その彼に救いの手を差し伸べたのは福澤諭吉であった。彼の援助を受け私立伝染病研究所(後の国立伝染病研究所となる)を1894年に設立し、所長として伝染病予防と細菌学の研究に取り組むことになった。研究所が出来て間もない同年5月に香港でペストが流行した。早速香港に飛んだ北里柴三郎は、そこでペスト菌を発見した。このことで、北里柴三郎の名声は高まり、研究所には多くの若手の研究者が集まるようになった。その中には、赤痢菌発見者の志賀潔、サルヴァルサン(梅毒の特効薬)を創製した秦佐八郎、黄熱病の研究で有名な野口英世など、多くの優秀な弟子を輩出している。 

 北里柴三郎は、常に伝染病の研究は、衛生行政と表裏一体でなければならず、国立伝染病研究所は内務省所管であるべきであるとの信念をもって伝染病の研究所の運営にあたった。しかし、1914、国立伝染病研究所は突如文部省に移管され、東京帝大に附属されることになった。北里は政府のやり方を承服できず、伝染病研究所の所長を辞して直ちに私立北里研究所を設立した。ちょうどその頃、世界的な病理学者となってアメリカから帰国したのが、野口英世である。彼を歓迎する人々に向かって野口はこう語った。「私は、メイド・イン・アメリカンの人間です、それに対して北里先生やその門下生は、メイド・イン・ジャパンのすぐれた学者たちです。皆さんは、なぜ北里先生を大事になさらないのですか」と。

 1917年、慶應義塾大学に医学部が創設された。福沢諭吉の恩義に報いるため、医学部長として、また顧問として終生その発展に尽力した。

 1931年6月13日の朝、いつもの時刻になっても北里柴三郎は起きてこなかった。心配した家族が見に行くと床の上に横たわったまま息を引き取っていた。脳溢血による死であった。明治・大正時代という日本の近代医学の黎明期に予防医学の礎を築いた北里柴三郎の「病気を未然に防ぐことが医者の使命」という予防医学への思い、その実現のためには情熱を持って研究に取り組まなければならないという信念は、今なお当院に深く息づいている。

北里研究所本館(現在は明治村に保存されている)