スエコザサ

牧野富太郎は「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。日本には約6000種の植物があるが彼が命名した種は2500種以上(新種1000、新変種1500)で、自らの新種発見も600種余りとされる。小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定された。

 牧野富太郎は1862年(文久2年)、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の裕福な商家に生まる。10歳より寺子屋、さらに塾で学び、その後12歳で小学校へも入学したものの2年で中退し、好きな植物の採集、写生、観察など研究にあけくれるようになる。その後、土佐の植物の研究だけでは飽き足らず、日本中の植物の研究を志し、22歳の時には東京帝国大学(現東京大学)理学部植物学教室に出入りを許される。

 26歳の時、8歳年下の寿衛子と結婚、31歳で帝国大学理科大学の助手となったが、給料のすべてを書物の購入や研究に使い、借金苦の生活であった。彼は多数の標本や著作を残していくが、学歴の無かったことや、研究に熱中するあまり、大学の書籍を借りたまま返却しないなどしたため、大学からも厚遇されなかった。妻の寿衛子は、苦しい家計を切り盛りしながら必死で夫の研究を支え続けた。後に牧野富太郎は、妻のことをこのように書き綴っている。

 

 私の妻は、私のような働きのない主人に愛想をつかさずよくつとめてくれた。私のごとき貧乏学者に嫁いできたのも因果と思ってあきらめていたのか、嫁に来たての若い頃から、芝居を見たいといったこともなく、流行りの帯一本欲しいとも言わなかった。妻は、女らしい要求の一切を捨てて、蔭になり、日向になって、絶えず私の力になって尽くしてくれた。

 

 牧野富太郎は金銭欲もなかったが、出世欲もなく、50歳にしてようやく講師となった。私のような小学校も出ていない人間が、大学で教鞭をとるなどおこがましい、そんな思いがあったのだろう。ある日そんな老講師を試そうと、一人の学生がある植物の根を見せ、何であるか言い当てるように言ったことがあった。牧野富太郎はこの根を入念に観察し、最後に噛んでもいいかと許可を得て噛んでから、北の植物か、南の植物かを尋ねた。そこで、南の植物だと答えると、牧野富太郎はすぐにグンバイヒルガオだと答えたのだった。その植物は正に九州以南に産するグンバイヒルガオ科の植物だったのである。牧野富太郎は噛んだときにサツマイモの味がしたので、すぐにヒルガオ科だということがわかったと話した。サツマイモはヒルガオ科だからである。そして南方のヒルガオ科の植物であるグンバイヒルガオにたどりついたのである。植物の分類は、見ることが基本であったが、牧野富太郎にとっては味も植物を知るための重要な要素だったのである。

 妻の寿衛子は、家計を支えるため、渋谷の花街で待合(芸妓との遊興や飲食をする店)を始めた。一時は繁盛するも、傾きかけるとこの待合をあっさり処分して、まとまった金を手に入れた。彼女はもっと確実な投資をすることを考えたのである。彼女が次に考えた投資とは夫への才能への投資だったのである。

 

寿衛子は、現在の東京都練馬区に夫の膨大な標本が保管できる家を建てた。牧野富太郎が64歳のときである。翌年、65歳で東京大学から理学博士の学位を授与され、順風満帆な人生を送るかに見えたが、この年に寿衛子は、病に倒れる。学位を取りこれから本格的に植物学に取り組めるようになったとき、寿衛子は倒れたのである。彼女は牧野富太郎に、社会的、経済的準備をさせるために現れたような女性だった。そして彼女の役目を果たし終えた時、病気になったのである。子宮がんの疑いがあったが、入院費が満足に払えなかったので、彼女は何度も入退院を繰り返し、結果的にこのことが彼女の命を縮めることになった。牧野富太郎が学位を取った年に寿衛子は他界した。牧野富太郎は、彼女が亡くなる前年に仙台で発見した新種の笹に「スエコザサ」「Sasa Suekoana Makino 」(現在の学名はSasaella ramosa var. suekoana (Makino) Murata)と命名した。普通の笹よりも葉が細かくて、やさしいデリケートな感じがする笹である。そのため寿衛子と言う名は、この笹とともに永遠に残ることになったのである。

 その後、78歳で研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行、この本は改訂を重ねながら現在も販売されている。1957年(昭和32年)94歳でこの世を去った。牧野富太郎が集めた40万点近いの標本は、現在首都大学東京の牧野記念館に納められている。

牧野富太郎は、晩年次のような歌を詠んでいるが、まさに彼の一生は、この文句通りの一生であった。

 「草をしとねに 木の根を枕 花と恋して90年」

牧野富太郎の墓は、上野の谷中霊園(正確には、谷中霊園に隣接する天王寺墓地)にある。その傍らにひっそりと佇むののが、寿衛子の墓である。その墓碑には、

「家守りし妻の恵みやわが学び世の中にあらん限りやすゑ子笹」

と刻まれている。

 

牧野富太郎と寿衛子が短い時間ではあったが、幸せな時間を過ごした旧牧野邸は、現在「練馬区立牧野富太郎記念庭園」となっている。

 書斎の一部もそのまま保存してあり、牧野富太郎が研究に没頭し、それを静かに支えた、寿衛子の姿を思い浮かべることができる。庭園を一周して帰るときに、牧野富太郎の銅像に出会った。その周りには、スエコザサが牧野富太郎を囲むように生い茂っていた。牧野富太郎なくして、日本の植物分類学の発展はありえなかっただろう。そして、寿衛子なくしては、牧野富太郎も存在しなかった、銅像の周りのスエコザサがそれを物語っているようであった。